ペペ・ピント in タンジェ・グラン・テアトロ・セルバンテス

 

モロッコのスペイン領時代終盤、多くのアーティストがモロッコへ訪れていた時代の中で、今日はあまり知られていないフラメンコアーティストについてご紹介したいと思う。今日の記事ではペペ・ピント、そのギター伴奏をしていたメルチョール・デ・マルチェナ、そして同じくカンタオールのマノロ・エル・マラゲーニョの3人に焦点を当てたいと思う。

 

この時のクアドロのメンバーには他にドリータ・ラ・アルガベニータ、ディアナ・マルケスや、ペピート・ペセジン、エルメラルダ・セビージャ、フアニータ・アセベド、セバージョス(?)などの踊り手もいた。

*タンジェのグラン・テアトロ・セルバンテス

そう、その時代タンジェで発行されていた新聞「ディアリオ・エスパーニャ」によく描かれていた通り、ペペ・ピントの公演は大きな注目を浴び、前回の記事でも述べたように、専門家によって本物の賞賛を得た。

記事が発行されたのは195036日で、モロッコ内のニュースを伝えるページの中に掲載され、以下のような見出しが付けられた。当時アフリカ大陸北部のスペイン領内のニュースは2つに分けられ、1つはタンジェに関するもので、専用のページと広告が掲載され、もう1つはテトゥアン、セウタ、メリージャ関連のものだった。

今回の記事の中で紹介するニュースは、おそらく掲載前日のペペ・ピントによるグラン・テアトロ・セルバンテスでの公演の講評で、興味深いことに、ペペ・マルチェーナの時は観客の興味を引き、より多くの観客が集まるよう事前に紹介記事が書かれたが、この時は事前の記事は一つもなかった。

しかし、先に述べたように、今回の講評は、ペペ・マルチェーナの時とは異なり、一般的な新聞記者一人によるものではなく、二人の記者によって書かれた。記事はアスタリスクで2つに区切られ、文体も異なっているのが分かる。

*ディアリオ・エスパーニャの記事

写真でご覧いただけるように2つに区切られ、最初の部分は公演の概要の紹介といったところだったが、ペペ・ピントが歌ったファンダンゴやタンゴなどいくつかのパロについて書かれていた。

後半部分の方が非常に興味深く、フラメンコをよく知る人、少なくともフラメンコ界に関連している人物によって書かれたものと思われる。記事の内容と、その中に登場するアーティストについての記載も興味深いので、ここに全文を紹介しよう。

 

「数少ない、ごくわずかな本当にフラメンコを歌うことの出来るカンタオール、それがペペ・ピントである。フラメンコを歌うというのは良い声で、感情や気持ちを込めることなくガラガラとうがいをするように音を立てることではない。フラメンコを歌うためにはまずフラメンコらしい声を持ち、歌詞の感情や痛みに応じて、それがこぶしをきかせ、喉を突き破るような声となることなのだ。カンテに泣くことも知らずには歌えない。この点においてペペ・ピントは並外れている。蛙の子は蛙、というように、ペペ・ピントがカンテの中で表現するものに加えて、彼の暮らす環境もこれ以上ないものなのだ。妻は歴史上一番キャリアが長く、レパートリーが多く、一番の実力派で正統派なカンタオーラ、ニーニャ・デ・ロス・ペイネス。素晴らしいカンタオールでなければ知られることもなかったであろう義理の兄のトマス・パボンは、とてもシャイで、人前に出るのを嫌い、日常生活においてもフラメンコにおいても変わり者だったが、ソレアを歌わせたら右に出る者はいなかった。ニーニャ・デ・ロス・ペイネスの兄アルトゥーロはカンテの父マノロ・カラコルのようにフラメンコの全てのカンテを知っており、知らずのうちに家族の中の芸術監督となっていた。アルトゥーロの娘エロイサは「ラ・アルバニス」という芸名で知られ、アンダルシアのバイラオーラとして優れた表現力を持っていた。過去形で書いたのは、一時的か永久的か不明だが、一線を退いているから。(どのパソでその表現力を示したか、疑問なところだ)一度通れば忘れない、中庭の入り口にあるポーランド人の仕立て屋の看板が奇妙な印象の、お手伝いさんが七面鳥の皮を剥ぐのに通る格子扉のついた、セビージャのペドロ・デル・トロ通りの小さな家。この環境、この状況の中で、軽快なカンテでさえも深みのある、昨日ペペ・ピントが気前よく歌ってくれたような、カンテ・ホンドが根を下ろしたのだ。彼は非常に大きな成功を収めた。もし観客がリクエストしたものをすべて歌っていたら、今頃も歌い続けていたことだろう。」

 

この記事の前半後半部分に共通して、「カンタオール(cantaor)」ではなく「カンタドール(cantador)」という表記になっている点にも注目したい。ペペ・ピントやマノロ・エル・マラゲーニョに言及する際も「カンタドール」という表記になっているが、これは「カンタオール」という表記が正当でないとされていたからであるのだが、踊り手に関しては「バイラオール」という用語を用いているのも興味深い。

 

以上、かのペペ・ピントもタンジェで公演をしたのだった。

 

文:ホセ・カルロス・カブレラ・メディナ

訳:瀬戸口琴葉


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