2023年5月28日
様々な理由からアントニオのそれは奇跡のようだ。なぜなら3年前の記事のタイトルにもしたように、彼のフラメンコは闇の中から生まれたものながら、彼は雨にも負けず、風にも負けず、そこに在り続けているから。また、あの身体からどうしてあんな声を絞り出し、闘いに挑めるのか、常人には説明できないから。そして、彼は歌うことからも、暗黙の了解で8曲歌うことを求められるカンテ・リサイタルに立ち向かうことからも逃げないから。
*クラウディア・ルイス・カロによる写真、今日はアンダルシア州フラメンコ学院に
ご覧の通り、アントニオについては言葉での説明が難しい。それは特に、彼の現在の様子とシギリージャ、ソレア・ポル・ブレリア、ソレアを歌う時の壮大さが合致しないからだ。
常にアグヘータ家カンテ保守主義派的で小規模なそのリサイタルが開催されたのは、彼の祖父を讃えその名の付く、ロタにあるペーニャ・ビエホ・アグヘータ。ジブラルタル、マラガ、ウエルバ、モロン在住の日本人、セビージャ、バルセロナ、そしてへレスからも、様々な土地の人が集まった。
アントニオ・エル・プラテーロによりアグヘータ家について簡潔な紹介がなされた。多かれ少なかれアグヘータ家については知識があるだろうが、その日集まっていた観客は標準以上によく知っていたことだろう。ギターには彼の従弟ドミンゴ・ルビチ。もったいぶった言い方はやめよう。彼は現在最も素晴らしいギター伴奏者のうちの一人と言えるだろう
*アントニオ・アグヘータとドミンゴ・ルビチ、リサイタル中の一場面
リサイタルはマラゲーニャから始まる。2つのレトラともマヌエル・トーレのスタイル。2つ目のレトラから既に絶好調で、舞台上では手加減しないことをはっきりと体現して見せた。
次は、事前予告もなしにソレア。カラピエラのスタイルからいきなりスタート。ただこのスタイルについては、ご存知の通り様々な議論があるが、ホセ・マリア・カスターニョや賢者アルフレド・ベニテスの線上をゆくベルトラン・ペーニャによれば、フアニキのスタイルとのほんの少しの、微妙な違いがあったという。その議論はさておき、1節目に急に来る低音部分があることから、歌うのに大きなリスクのあるスタイルであると言えるだろう。
次はかの美しいレトラ「お前の父親と母親のぬくもり、、、」が続き、その後はあまり美しいとは言えない「僕は小石、海に投げられ、、、」のレトラ。最後は父のマチョ「水を汲むのに川には行くなよ、あの茂みの後ろには、モーロのやつらが隠れてるから」で締め括った。
アントニオは全力を注ぎ込んだ。彼の声が描くラインははっきりと澄んだものだった。
その後は、体力温存のため、短いファンダンゴ。アロスノのスタイルで「俺の物じゃないことは分かってた」、「かわいいあの色黒の娘の葉」のレトラを歌う。そしてマヌエル・トーレのファンダンゴ・ナトゥラル「君に白い鳩を連れてきてあげよう、僕は巣に行き一羽を捕まえた、母鳩は泣いていた、僕も君のために泣いたから、その鳩を放してしまって、その鳩は飛んで行った」のレトラで締めた。
アントニオは拍手に応えようと立ち上がろうとするが、、、立ち上がることが出来ない。
一部の最後はタラントを歌う。汗で濡れた彼の黒髪と、小さな目が印象に残る、、、
第二部。「俺の鍛冶場は売りに出していた」のレトラからソレア・ポル・ブレリアを歌い始めるが、少々迷子になり、ホアキン・エル・デ・ラ・パウラの「井戸に身を投げようとした、そこに守護天使が現れて、後ろに引っ張ってくれた」のレトラを繰り返した。このような場面から彼の身体的な無理と精神状態が垣間見える。
そしてシギリージャ。彼の口から出てくるそれはもはやカンテではない、雷鳴であった。彼の人生を語るようで、その根底にあるのは苦悩である。観客の日本人も涙を流すほど。全員が鳥肌状態だった。そのカンテは極上。その日の絶頂であろう。
最後の曲はタンゴで、甥のアグヘータ・チコがパルマで参加。彼はアントニオに愛情を持って、優しく接していた。タンゴ・デル・ピジャジョを歌う。その後ブレリアでリサイタルは締め括られた。
愛好家パコ・カブレラによる録音音源を以下に残す。アントニオの最初の一言にその日の出来事が集約できるだろう。「何曲か歌ってみようと思います、、、歌えるかどうか。」
彼の本質は「パンク・フラメンコ」。アグヘータ流カウンターカルチャーである。
概要:
ペーニャ・ビエホ・アグヘータ
2023年5月27日
アントニオ・アグヘータ、ドミンゴ・ルビチ
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